教会に来るきっかけは、思い返せば妻の誘いに乗ってホイホイと礼拝についていったこと。

日曜ごとの礼拝は、それからなぜか1年近くも皆勤で、ついには受洗に至ってしまいました。「信じる」というのは自分側からする主体的な行為だと思っていましたが、実はそれこそがうぬぼれ。神様が私を助けたいと手を差し伸べてくださっているのだと諭されたからです。自分で自分を信じ切ることはなかなか出来ないものですが、神様が私をいつも愛しておられ、そばにいて下さるのだからそこに自分というものが「ある」と信じられる。「自分は何者か」という青臭いテーマに若い頃頭を悩ませた私にとって、この神様との出会いはようやく年来の「宿題」の答えとなったのでした。