私は若い時から、人格形成、人間完成、人生の生き方などを模索して来ました。それで、この有名なキリスト教の教えの中にもそのヒントがあるのではないか、という思いで先輩に誘われるまま教会へ行きました。教会では、私が驚くほどに手垢で聖書が汚れる程に読み込んでおられる方々がおられました。それで、私も通り一片の接し方でなく、じっくりと取り組まねばと思いました。

教会の方々は私のためにも祈っていてくださったのでしょう。ある時、私は聖書の中の一つ、ヨハネの福音書9章の言葉に目が留まりました。「あなた方は目が見えると言い張っている、そこに罪があるのです。」というイエス様の言葉でした。目が見える?それは自分の力で人生を切り開こうとしている自分の姿だ、と思いました。そこに罪がある、と神様は指摘されました。その神様がひとり子イエスを十字架にかけて私たちの罪を贖って下さったのだ。そうだ、この道を行こう。私はそれを信じ洗礼を受けました。

私は修行僧のようにこの道に進みました。しかし、その歩みは——今思えば——-律法的(注:ただ必死に聖書の教えを守ること)な歩みになっていました。特別な喜びもなく、ただいたずらに年が過ぎて行きました。サラリーマン生活の中で、キリスト者らしく振舞おうとして何度も苦しいところを通りました。全く惨めな状況でした。ああ、こんな宗教、やめてしまいたいと何度か思いました。そして行き詰まってしまい、「何とかしてください神様」と叫ばざるを得ませんでした。そういう私を神様はじっと見ておられました。 罪を指摘されたときの「自分の力で人生を・・」、私はまだ自分の力に頼っていたのです。神様はそれに気づくまで忍耐強く待っていてくださいました。そして私が失意の中から神様に叫んだ時、神様は大いなる憐れみを示してくださいました。ついに神様は私をとらえて下さったのです。神様は私を新しくしてくださいました。本当に感謝しています。